自分を責めるのは…

自分を責めるのは自分を慰めているのと等しい事がある。自分を自分で責めている事で満足しようとする自己満足と等しい。誰のせいにだってできる。誰に責任を押し付けるかの問題になる。今、自分で自分を責めようとしている…。

よく考えてみる。悪者は明確だ。諸悪の根源だ。でも、それは自分が知っている範囲での諸悪の根源。その諸悪の根源には、さらに根源がある事を見落としてはいけない。上へ上へとさかのぼると、きっと誰が悪いのか分からなくなる。その分からなくなった時、それは誰のせいでもないと考える人、自分のせいだと考える人、自分の中の諸悪の根源のせいだとする人。それが決まると感情の矛先ができる。

諸悪の根源について考えてみる。自分一人だけの意見では参考にならない。多数の意見を集めてみる。どう考えても悪だ。善と答える人は居ない。その人が悪かどうかを決める基準は、自分にとって善か悪かだ。ただ、自分の知っている範囲だけで悪と決め付けたくはない。だから多数の意見を集めてみた。がしかし、結果は変わらず。やはり悪者がいる。決まった。

でも…何もできない。だから、やっぱり自分が悪者。誰も責めてくれないから自分で責める。反省する。そして、自己満足に浸りたくない自己嫌悪に包まれて沈んでいく…。自分を責めるのはとても簡単だ。理由なんていくらでも思いつくし、その理由を拒まないから。

ここで悪者が分からなくなった時のもう一つの考え方をあげてみる。さっきは3つしかあげなかった。もうひとつは…自分には関係無い。この物事から自分を遠ざける。考えたって、責めたって、誰のためにもならない。それなら考えるのをやめよう。誰も責めない、誰にも責められない、それでいいじゃないか。それを現実逃避と言う人がいるなら、そう言わせておけばいい。関係無いから。他人の土俵を自分の土俵に持ってきて、自分の土俵を汚されて苦しむ。だったら、他人を無かった事にしよう。考えるのはやめよう。そういう考え方もある。

私の選択肢はどれだろう。私の思っている諸悪の根源がいる。でも私だって諸悪の根源になりうる。そう考える事だってできる。どの選択にも真実が無いなら、自分が信じる道を行くのみ。自分のしたことを反省する事。それ以上でも、それ以下でもない。